No34 クラシック曲

小さなテーブルに置かれた茶器。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
シックに整うようにテーブルを彩るお茶菓子。
部屋に流れるはショパンの調べ。
その調べは今の俺には切なく響いていた。

今の俺の生涯で少ない女性の家を訪ねるという行為。
今日で何度目かは忘れたけど何度か訪ねたこの部屋に最近は特に緊張感なくこの場所まで足を運べている。
そこまで通いなれ始めているのか腹を括れたのかはわからないが今日は訪ねる理由がちょっと不安な節なもの。
(前みたいに壊れてはないよな…)
彼女…柳川がまた病で学校を休んだ。
定期考査も学園祭も終わっているので後は学期末交考査までのインターバル期間ではあるが少しでも遅れがないようにとの教師からの配慮。
つまりの所今日の授業のプリント一式を届けにいく事となった。
クラスの仲の良い女子にでもやらせればいいものを頼みやすさと一度引き受けた事によって俺が抜擢され今に至る。
俺はそのプリントを持ち柳川の家の戸を叩いていた。

「いらっしゃい」
いつものテンションの柳川がそこにはいた。
確かに前みたいなテンションの柳川も出てこられては困るが病人を見舞いに行っていつもと同じ様子の人間が出てきてもらっても反応に困るというものだ。
「…元気そうだな」
俺が半ば皮肉って言うと柳川はそのままのテンションで返してくる。
「まぁ、一応の病欠だし…用事があって来たんだろ?上がるといい」
そう言われて俺は言われるがまま柳川の家に上がっていた。

相変わらずの殺風景な部屋。
俺はさっさとプリントを渡して帰ろうと思ったがプリントを手渡すと柳川がそれを制止した。
「まぁ、折角だしお茶でも飲んでいけ…私の病がうつるかもしれないから無理にとは言わんが…」
少し陰の刺したような笑みで言う柳川に否応が無いような雰囲気ではあったが…
「なら、一杯貰っていくかな」
そう告げて俺は腰を下ろしていた。

キッチンというより台所という言葉がしっくりくるこの部屋の調理場。
柳川がそこに立ちながら湯を沸かしている。
特に会話なんてなくテーブルに肘を付きながら柳川を見ていた。
(なんか空気が重いが…特に話す事もないしな…)
なんとか話題をと思いながらも特に思いつかず柳川の後ろ姿を見続けるだけ…ともいかないので何とか会話の糸口を探り出した。
「そういえば、結局今日はなんで休んだんだ?一応とは言ってたが…」
とは言っても単なる疑問を投げかけただけだが。
そんな質問に柳川はこっちを向かずにそのままの状態で答える。
「まぁ、掛かりつけの医者に言われててな。風邪だろうと私の体にはちょっとシンドイものがあるらしくてな…少しでも体調が悪いなら休めという事だ。少し免疫がほかの人間より少ないだけなんだがせめて職に就くまでは無理はするなと…」
そこまで言うと柳川は何かに気づいたのかゆっくりとした足取りで台所から出てきて部屋の隅にあったCDプレーヤーをいじり始める。
「気が利かなかったな。あのまま無言であっても苦痛だったろう…最近の曲とかは生憎知らないがこれでも聞いていてくれ」
そのまま流れたのは聞いたことのないクラシック曲。
繊細なピアノの旋律から始まった曲はこの殺風景な部屋に彩りを与え始めた。
「この曲は?」
台所に戻って再びヤカンに目をやっている柳川に問いかける。
「ショパンの曲よ。音楽の教科書にも載ってたでしょ?…私の好きな曲…かな」
そう柳川が答えた瞬間にヤカンが煩い音を上げる。
そのまま手際よく柳川は何かしらの作業をして再びヤカンに火をかけていた。
同時に何かをレンジに入れていたような気もするがあえて何をしているかは聞かずにそのままショパンの音色に身をゆだねておいた。

しばらく経っただろうか。
曲調も変わり次の曲に入ったのがわかった時に部屋が甘い香りで包まれた。
「待たせてすまなかったな。私が作った物だから味は保障できないが食べてやってくれ…少なくても死ぬことはないだろう」
そんな言葉を携えながらカップに紅茶を注ぎクッキーが乗せられた皿をテーブルに置く柳川。
小さなテーブルに置かれた茶器。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
シックに整うようにテーブルを彩るお茶菓子。
部屋に流れるはショパンの調べ。
殺風景な部屋がまるで上品な喫茶店のように様変わりした瞬間だった。
俺は促されるままにクッキーをひとつ手に取り口に運んだ。
どこか優しい味がするクッキーだった。

カップの中身が半分程減った所で俺は口を開いた。
「にしても晴陽祭は大成功だったな」
つい先日開催された晴陽祭について話題を振ってみる。
俺たち3組は結局コタツ喫茶をやっていた。
あの日の柳川の意見をほとんどそのまま実行して売り上げは予想を大幅に超えるものになっていた。
「そりゃそうよ。だって私が経営方針の指揮を取ったのだから…でも部門優勝できなかったのは悔しいわね」
他にはなかった純和風の内装と制服はかなり好評を得てはいたのだが如何せん喫茶店というジャンルは定番であった為に競争率は激化。
俺たちのコタツ喫茶はクラス部門で2位総合では5位という健闘はしたが表彰には引っかからなかった位置だった。
ちなみに喫茶店同士の激戦を勝ち抜いたのは陸女の喫茶店であった。
それこそあの演出は他の所ではできなかっただろう…羞恥心的な意味で。
「まぁ、それでも楽しかったな。柳川が率先して夏休み潰してでも生徒会と取引してくれたおかげで自由にまわれたしな。ありがとよ」
俺は率直に礼を言うと柳川の頬が少し朱に染まったような気がした。
「べっ…別に英人の為にやったわけじゃない。ただ2年も拘束されるのが嫌だっただけで…」
そんな事を慌てた様子で言う柳川を横目に一つクッキーを齧る。
「あっ…その、クッキーの味大丈夫?」
その言葉に俺は淹れられた紅茶を一口飲み答える。
「おいしいな。特にこの紅茶と合う」
そう答えるとほっとしたような表情で「良かった…」とつぶやく柳川。
そんな彼女を少しかわいいと思ってしまいまた会話が途切れそうになるが慌てて会話を続けようと話題を探す。
(にしても晴陽祭の話もこれで打ち切られたっぽいしどうするか…)
部屋を見渡しても特に何かあるはずもなく流れるショパンの曲が部屋を包むだけ。
俺はそれを取っ掛かりにしようと再び口を開く。
「そういえば…なんでこの曲が好きなんだ?」
その問いに柳川はきょとんとしたような表情をした後に少し照れくさそうに答えた。
「まぁ、正直貧乏やってるからあまり最新の曲が聞けないからと…お父さんが好きだったみたいだからかな。私は覚えてないけどお婆ちゃんがそう言ってたし、この曲を聴いてるとなんとなく暖かい気持ちというか懐かしい気持ちというかそんな感じなれるからかな」
柳川のその答えに正直聞いては不味かった事かと思ったが時は戻ってはくれない。
俺はその答えに沿えるような回答をしとくことにした。
「そうか…まぁ、良い曲だよな。確かに暖かく感じれる…そうだ、良かったらでいいがCD貸してくれないか?」
「そうね…この曲の理解者が一人でも増えるなら」

しばらくショパンについての薀蓄を柳川から聞いていると既に外は陽が落ち始めていた。
「おっと、少し話しすぎたかな…どうだ夕飯も食べてくか?ぶぶづけぐらいしか出せないが」
そんな皮肉った事を笑顔で言う柳川に病気の事は大丈夫そうで安心し腰を上げることとした。
「頂きたいところだが親が煩いので帰るとするよ」
そう言いながら玄関に向かおうとすると柳川が俺を呼びとめてから何か作業をしている。
何事かとただ待っているとさっきまで流れていた曲が止まったのに気づく。
「すまない。貸すと言っておいて忘れていた。返してもらうのは何時でもいいその時はぜひとも感想を聞かせて欲しい。今日は喋っていてちゃんと聴けていないだろうからゆっくりと一度聴いてくれ」
そう言いながら俺に一枚のCDを手渡してくる。
「いいのか?明らかに原盤だし…」
「いいんだよ…っというか聴いてほしいという私の我侭だ」
そんな事を言いながら更に最早押し付けるような形で渡してくる柳川からCDを受け取ると俺は「じゃ、ちゃんと聞いてみるよ…早く元気になって学校来いよ?じゃなきゃ俺の仕事が増える」と伝えて柳川の家から出て行った。

小さなテーブルに置かれた茶器。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
シックに整うようにテーブルを彩るお茶菓子。
部屋に流れるはショパンの調べ。
借りたCDをかけながら柳川の家にいた時を再現してみてもあの時のような暖かい気持ちは生まれなかった。
その曲に耳を傾けてもただその調べは今の俺には切なく響くだけだった。


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